まごころ 真実 雄大さ 本当に大切なもの漢方薬と生き方の自然の理薬局  

漢方薬の相談から生き方の相談へ

何時でも、何処でも、気付こうと気付くまいと、知ろうと知るまいと、好むと好まざるとにかかわらず、誰にでもあてはまる本当の生き方であります。

 


物の考え方について

物事を知る事 物事を判断する事 物事を感じる事

自然の森羅万象を観察するに、物の見方をするには、三通りの把握の仕方があります。このことを漢方処方の葛根湯を例にとって考えてみますと、まず第一には、知識として何が薬味として入っているかということになります。
葛根湯の中に入っている薬味は、何が入っているかというと葛根(かっこん)・麻黄(まおう)・桂枝(けいし)・芍薬(しゃくやく)・甘草(かんぞう)・生姜(しょうきょう)・大棗(たいそう)の七つの生薬が入っております。其の生薬は、根か、枝か、葉かのいずれが使われているかという知識であります。
それには、薬味の一つ一つの働きをよく知らなければなりません。いわゆる知性であります。   

更に第二番目は、判断としてそれぞれの生薬が、どういう働きがあるかという事を把握しなければなりません。


葛根の働きは・・・首筋から背中へかけて、其の場所の組織のこわばりを緩める働きがあります。
麻黄の働きは・・・体の表裏の水分を追い汗を発して熱を取り喘と咳を鎮め痛みを取り悪風寒を止めて水気を消します。
桂枝の働きは・・・肉桂の枝。汗を出して皮膚の表面のもつれを調えるとともに気の上衝を下げる作用がある。
芍薬の働きは・・・よくたるみを引き締め痛みを除く作用がある。
甘草の働きは・・・緩和を主として逆をめぐらす作用がある。
生姜の働きは・・・気を助け外を実する作用がある。
大棗の働きは・・・ひきつり引かるる事、こわばりつまりを治す作用がある。               「新古方薬嚢」より  

この様な生薬を組み合わせた漢方処方も良くわかっていなければなりません。
更に、桂枝湯・桂枝加葛根湯・桂枝加桂湯・桂枝加芍薬湯・桂枝去芍薬湯・桂枝甘草湯・芍薬甘草湯などの処方の使い方の判断も出来なくてはなりません。
こういうことを把握して、其の働きから判断する、いわゆる理性であります。

第三番目は、その知識である知性と判断である理性により、処方を服用した時には、どの様に改善されるか、どのように症状がよくなるかという感じをつかまなくてはなりません。いわゆる感性であります。

この三つを把握できるようになりませんと本物ではありません。
判りやすく言うと、料理をつくる場合に、まず、いいもの、いい材料にこだわります。いいものを知ることです。此れが、知性であります。次に味付けをするのに、どういう香辛料を使うかという判断であります。つまり理性であります。最後にはどのような味が良いかという感性なのであります。ここまでこないと本物にはなりません。

この様な努力を日々続けなければなりません。これが大事な問題であります。


原因と結果について

自然界には、原因と結果という関係があります。漢方医学的にいいますと、体の冷えている症状は、その症状を改善するためには温めることで、もとの正常に戻します。逆に熱をもっている症状は、冷やして元に戻します。乾燥している症状は潤おすことにより改善し、水浸しの症状は、逆に水分を外に出すことにより改善しなければなりません。この様にバランスを取らなければなりません。物理的なことに原因を探し、そこから結果を導き出します。しかし病気は物理的なものだけではありません。精神的なこともあります。精神的なことにも、原因・結果があります。喜びに感じた生活をすると細胞の働きが高まり免疫が上がり抵抗力がついてきます。反対に苦しい悩みを抱えた生活をすると細胞の活力が失われ免疫力が落ちてしまいます。つまり精神的なことにも、原因・結果があります。そうすると生きる事にも、原因・結果があることになります。
植物の種を蒔くと種どおりのものが生えてきます。目に見えることには、原因・結果があり、目に見えないことに、原因・結果がないのでしょうか。目に見えないことにも、原因・結果があるはずであります。だから生きている毎日の行いにも、原因・結果があるはずであります。より良く生きたいと思いながらマイナスの考え方をして、その原因を作り出しますとマイナスの結果を得るのは、当然のことになるはずであります。それなのにマイナスの考え方をしてプラスの結果を得るはずがありません。もともと生命はプラスを求めて生きるはずであるのに、どうしても生きることに,ネガティブな否定的生き方をしてしまいます。料理をつくるにもおいしさを求めてつくろうとします。おいしくないものをつくろうとはしません。旅行に行くのも楽しさを求めて行く筈であります。しかし生きることには,おもしろくないような生き方をしてしまいがちであります。
ここに病気の本質があります。もっと拡大して考えますと悪いことを考えた生活をしていてより良く生きることが出来るでしょうか?より良く生きることは出来ないはずであります。マイナスの種を蒔いてプラスの結果は得ることは出来ません。ナスを蒔いてかぼちゃは収穫できません。種どおりの収穫しか出来ません。マイナスをしていて、プラスになろうとは、自然の法則に逆らっております。だから、プラスの種を蒔いてプラスの結果を得る事は当然のことであります。

どうしても,より良く生きていただきたいのであります。


主体性と責任転嫁について

主体性と責任転嫁ということですが、責任転嫁の転嫁ということも、この漢字の使い方は、おかしいです。本来は、転嫁ではなく転化という字を使うべきであります。いろいろなことを嫁のせいにして、自分のせいには、致しません。このことが一番問題であります。全てのことにあたり、問題が出てくることの結果は、良きにつけ悪しきにつけ、全部自分のせいであります。子供が勉強をするとき、隣の○○ちゃんは、いい机を買ってもらって、いいな。自分はリンゴ箱だから勉強は出来ないよと机のせいにします。人間関係でも、あの人が、どう言ったこう言ったと、その人のせいにしますが、思うのは自分であります。向こうが勝手に言っているだけで、こちらには関係ありません。思うのは自分ですから、影響を受けて思い悩む必要はありません。反対に自分が相手に影響を与えるぐらいにならなければなりません。全てのことを、世の中のせいにしたり、運命のせいにしたり、先祖のせいにしたり、名前のせいにしたり、生まれ星のせいにしたり、家相のせいにしたり、方位のせいにしたり、しています。とにかく自分以外のせいにしても何も変わりません。
自分がどうより良く生きていくかは、自分のせいであります。地位・名誉・財産のことを問題にして生きていく人が多いです。こういうことを追い求めて生きても何にも価値がありません。全て消え去ることにとらわれても価値がありません。だから西郷隆盛も、こういうことに価値を置かなかったわけであります。何故なら何も無いところから生まれてきて、帰るときは何も持っては帰りません。つまり、私たちは、この地球に、気持ち・意識の旅行に来ています。だからこの人生旅行を終わる時は、今まで生きてきた、楽しい、喜びの気持ちを持って帰るべきであります。若し、苦しみで生きたとしても、なんら価値はありません。帰ってからの思い出は、苦しみしかありません。
生命は永遠です。生命はなくなりません。何故なら、物理学でも で表わされているように、エネルギーは無くなりません。生命は、無くなりません。何故かと言うと、始めて会った人でも、虫が好かないと思う人と、思わない人がおります。本当に始めて会った人なら、何も思わないはずであります。それをそう感じるということは、遺伝情報の中に、いやだなということが、インプットされているために、そう感じてしまいます。では、どこでその様に感じたかというと、この世界に生まれてくる前の世界で、いやな体験経験をして、いやな観念をつくってしまったからであります。こういうことを考えていきますと、全部自分自身の主体的な考え方から出てきていることになります。全て自分のせいであります。
要するに生きる一生は、一回ではありません。何回も生まれ変わりして親の意識に成長するためであります。より良く生きていくと、素晴らしい生き方になっていくことに決定しているのです。


目的について

生きる生き方の中で、生きていくのには、全て何か目的を持って生きているはずであります。目的を持たないで生きている事はありえません。例えば、朝、起きて洗面所に行くのも、顔を洗うためであり、歯を磨くためであります。全ての行いは、目的を持って行っております。しかし、その目的も、自分の為に行うことと、他の生存の為に行うことがあります。いずれにしても、目的なしに行動することはありません。

生きる生き方の目的にも、四つの段階があります。
一つには、自分の本能的なことを得ようとするための目的であります。つまり何かを食べるためであり、何処かで睡眠をとろうとするとかの動物的欲求の目的の段階であります。
二つには、人間的な欲求を満たす目的を持って行動しようとすることであります。地位を得ようとか、権力を得ようとか、財産を増やそうとか、その様な目的を持って行動しようとしております。
三つめは、物質的なことや社会的な事にとらわれないで、自分自身の内面的な満足を求める目的を持った生き方、行動をしようとしております。つまり、芸術家が、自分の心の表現を絵で表わそうとしたり、陶芸家が、素晴らしい焼き物を焼こうとしたりします。要するに、芸術家が自分の芸術の世界の中で満足を得たり、哲学者が自分の哲学思想の中で自己満足に陥ったり、宗教家などが自分の世界に入り満足しているような目的で生きている場合があります。このような目的を持った行動は、自己の内なる心の満足を得るための行動であり、目的であります。
しかし、四つ目の目的は、自分の方を向いた目的ではなく、自己の外側に向かった目的であります。つまり、他の役に立つ目的を持つことで行動する目的であります。他の為に役にたってこその目的を持って生きることは、素晴らしいことであります。この世界に存在する一つ一つの存在は、そのもの自体を超えた役に立つ存在では、ないでしょうか、台所の鍋も、釜も、箸も、自分の周りにある全てのものは、役にたつ存在では無いでしょうか。存在している物質の一つ一つは、他の役にたつ目的を持って存在しております。そのもの自体は、何も語りかけてはくれません。しかし、存在の意味は事実を通して教えてくれています。

だから、他の為に役にたつ目的をもって生きなければなりません。


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