自然界における本質的事実

以前、東京博物館に行った事があり、ここで地球歴史四十数億年のことについて説明がしてありました。人類は、約4、5百万年前に地球に現れたといわれております。この地球歴史四十数億年の期間を、ぐっと集約して、この期間を1年間に例えて見ると、一体人類は何時頃、地球に出現したのかと表示してありました。地球が出来た時を1月1日として、現在を12月31日であるとすると、人類が、この地球に現れたのは、12月31日の午後8時過ぎに現れたことになると表示してありました。

このような事実を認識しますと、まだ人類が地球に現れて4時間位しかたっていないことになります。そうして色々な人種・民族・動物・植物がこの地球に生存していることになります。人類がこの地球に現れる以前も地球は生命活動をしている事実を認識すると、その後に生存し出した人類が、勝手に宗教宗派を作り宗教争いや民族紛争をしています。宗教宗派で地球は回っているはずは無いという事実があるのに、どうしてこのような愚かな事をしているのでしょうか。

生命は、宗教宗派で生存しているはずではないのに、どうして自分の宗教宗派が一番であると思うのでしょうか。中東では未だに爆弾テロが横行しております。
生命は宗教に関係ありません。自然界の事実ではないからです。

私たちは、宗教宗派・人種・民族・国家・年齢・性別・動物・植物の差はなく活かされております。どうして、助け合った生き方が出来ないのでしょうか。私たちは、この地球上で一体どのように生きたら良いかということの意味を判って生きていくべきであります。それには事実を認識して生きていかなければなりません。物理でも化学でも事実を追求しているはずですが、どこかおかしいことをしている事に気がついていません。

ここに私たちが生きていくのにどうしても考えなくてはならない事を示唆する書物があります。それは「愛と生命(いのち)の秘密」と言う書物で、その中に、生きる本質が示されています。この本の抜粋をここで紹介致します。この中から真実の生き方を求めなければなりません。

『われわれは誰しも自分の人生が今生だけの1回ですべてが終わってしまうことよりも、繰り返し多くの人生があり、生命が永遠であることを本質的に望んでいる。サーミナラ博士の輪廻転生についての考え方は、われわれのこの本質的な欲求を満たすものである。もし、われわれが輪廻転生を素直に受け入れれば、われわれはこの人生が一回だけで終わってしまうものだという虚無感から開放されることになり、来世や再来世のために今生をより充実したものにしようという明るい希望を持って通ることが出来るのである。輪廻転生論を信じることは、われわれの価値尺度が今生だけという限られたものではなくして、来世・再来世と続く永遠普遍なものになることを意味することになる。

輪廻転生論を信じることは、今生という物質界の一生命現象にのみとらわれるのではなくより形而上的な存在、すなわち魂や生命そのものに価値を置くことになるのである。このことは、われわれ自身の精神や人格の質的向上発展を意味するものである。多くの人生を繰り返しながら、われわれ自身の本質的生命そのものが永遠普遍なる存在へと向上発展していくことを意味するものである。デカルトが言うように「我思う、ゆえに我あり」ということから考えれば、われわれの本質は“思うことのできる実体そのもの”であり、物体として認識される肉体は決してわれわれの本質ではないことになる。したがって、何かを認識できる形而上的存在がわれわれ自身であるならば、われわれの質的な向上発展とは、次のように考えられる。


価値の段階

われわれ自身は、形而上的存在すなわち生命そのものであって、最終的には永遠普遍なる生命へ到達する根本的欲求を持っているとしても、そこへ魂が到達するには基本的に四つの段階を経なければならない。
魂の認識の段階が一番低い第一次的欲求とは物質的・肉体的欲求である。この段階では動物的・本能的欲求を満たすことがすべてであり、認識の対象も当然、物質的な事柄、肉体的な事柄となる。この第一段階では、生存の価値として魂がこの世で欲求することは動物的本能を満たすことがすべてである。猫に小判、豚に真珠という諺がある。猫はカネという価値を認識出来ないし、豚には真珠の価値がわからない。動物は人間より欲求と価値の認識の段階が低いからである。そこで

第二次的欲求は人間的欲求であり、社会的欲求ということになる。人間ならば魚一匹と金貨一枚のいずれか価値のあるほうを選択せよと言われれば間違いなく金貨を取るだろう。金貨ならば魚一匹だけでなく、もっと沢山手に入れることができるし、また他のものでも入手できるということを認識しているからである。人間の社会的欲求というのは地位、権力、財産など人間社会で通用するものの段階である。しかし、キリストが聖書で言っているごとく「汝もし全世界の金を儲けるも、明日に生命を失なわば何の価値があるだろうか」ということになると、第二次的欲求の段階にも限界があることがわかり、この段階だけで留まることはできなくなってくる。

第二次的欲求の段階とは、それを満たすことができたとしても、最大に見積もってもしょせんは生きている間だけということになる。しかし、実際には一生の間というより地位や権力を持っている間だけ、金や財産を持っている間だけの満足しか得ていない。絶対君主であっても王位を追われれば終わりである。一時は、人間社会で絶対権力を持ち皇帝となったナポレオンさえも、晩年はセントへレナ島流され空しくこの世を去ったし、また豊臣秀吉は“この世のことは夢のまた夢”と言って絶対権力の座から息を引きとったといわれている。地位、権力、財産など人間社会の欲求を満たすことの空虚さを感じさせる例は人類の歴史上に枚挙にいとまがないほどあり、現在でも常にこの人間世界で起こっている事柄である。われわれ人間は、一つの価値の限界に直面して行き詰まると、もっと大きな確実性のある価値を求めるようになる。このことが次の第三次的欲求となるのである。


第三次的欲求とは、物質的なことや社会的なことにとらわれることから解脱して、自己自身の内面的な満足を得ようとする欲求である。一つの宗教宗派に入信し、その宗教の教祖や経典に価値を見いだし、心の満足と生存の安らぎを得ることも第三次欲求である。ただし、金もうけや商売繁盛などの現世利益の目的だけでの信仰は、信仰というものが第二次的欲求を満たすための単なる手段の一部であるがゆえに第三次欲求とはいえないだろう。この本の中でもサーミナラ博士が一般意味論の基本的考えの一部を紹介しているが、一般意味論の観点からは信仰は第三次欲求だと単純にレッテルを貼ってしまうことは本来危険なことである。
     
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なぜなら、信仰といってもその意味内容が第一次的欲求に近いものである場合もあれば、第二次的欲求の段階のものもあるからである。勢力争いや権力闘争に明けくれている宗教人や宗派のより高地位につくことが目的で修業に励む僧侶、神官、牧師などの信仰は第二次的欲求であって決して第三次的欲求とはいえないのである。サーミナラ博士が言うように一般意味論とはこういった事柄の意味内容を明確にしていく一種の科学的思考法だと言えるだろう。とにかく第三次的欲求とは感覚的欲求ともいわれるものであって、自己自身の内面的な満足に価値を見いだすものである。したがって、芸術家が自己の芸術の世界の中で満足を得たり、禅や瞑想によってひとり禅定に到達して三昧の境地を味わうことは第三次的欲求である。哲学者が自己の哲学思想にとらわれ自己満足に陥ったりすることも第三次的欲求である。あるいは宗教でお題目や念仏・お経を唱えて恍惚となる心境なども同じ段階の欲求である。

第三次的欲求では、第一次や第二次的欲求の段階を越えて自己の内なるものに目を向け、精神的価値を認識し始めるのではあるが、やはり限界がある。確かに、自己自身というものの本質的価値が自己の外界としての物質現象界にあるのではなく、自己自身という内なるものにあるという段階にまでは到達したのであるが、自己という観念が小さく狭過ぎて自己満足だけに陥りやすい。何十年間も山の中にこもり、人目を避け、一般社会から遊離してひとり修業しているインドのヨガの行者などはこの典型といえるだろう。だが、この段階の者同士の接近は大変危険である。同じ生命を持ち、同じ地球に生存している者同士が互いに唯我独尊的な考えで他の人種や宗教、イデオロギーを否定し合うからである。これは第三次的欲求の限界である。現にこの世界は宗教、人種、国家、イデオロギーの相違でこの限界線にきているのである。第三次的段階では、魂の成長の過程が即物的観念からは脱し得たものの、狭小な自我という枠が余りに強すぎて、生命本来の永遠普遍性の価値を認識できない状態である。
現代の科学は人類にとって、人種、宗教、イデオロギーの相違を越え共通普遍なものであるにもかかわらず、自己の小さな観念にとらわれた魂の発展の段階のものが利用した場合には、かえって共通な科学を持つことがマイナスとなる。なぜなら、科学の力を使い原水爆を作り、地球の資源を枯渇させ人類は互いに他者否定の危険な状態を生み出す結果となるからである。
第四次的段階では、生命本来の姿を認識し、価値を見いだす段階である。この地上において植物や動物など生存の形態は種々に異なっていようとも、大自然が生きとし活けるものに与えている生命そのものは本質的に全く同一のものであることを認識できる段階である。自己の本質である生命の尊厳性の自覚が他の生命に対する絶対的尊重となり、自他一如の生命本来の認識ができる段階である。生命とは、もともと物質現象界の時間・空間の次元を超越し、霊的自我の観念的枠も超えている存在である。生命とは永遠普遍にあってあるものであり、あらゆる能動力の根元でもある。したがって第四次的段階では、精神的満足が自己の内部へ向かうのではなく、生命本来のあるべき姿どおり広く他へ向かうのである。このことが自己の観念の拡大発展である。第四次的段階において、生命本来の価値を認識した釈迦やキリストなどの聖人たちは生命あるものすべてに対する絶対愛、慈悲を持ってのぞんだのはこのためである。第四次的欲求、すなわち生命的永遠普遍の欲求は、われわれすべての生命あるものの根元的欲求であり、われわれの本質である生命が生命本来のあり方を望むのは当然のことである。価値の認識と発展の段階の区分表を理解しやすくするために示しておいた。この世における生存の価値、すなわち生きがいをどの段階に求めるかは各人の自由選択の能動的意思によるものであるが、各人が選択した欲求の段階が自己の認識の成長発展の段階を現すものである。自らが自らによって自らを明白に現すことを自明の理という。この世は、すべて自明の理によって成立しており、この世に生きるわれわれ自身の生存の行為と生存の姿が直ちにわれわれ自身の霊魂の成長段階を示しているのである。われわれの成長とは、肉体的な物質の欲求から生命本来の永遠普遍なる欲求へと止揚していくことである。より肉体的なこと物質的なことに捕われていくのは成長発展の逆様、すなわち下位落である。生命、肉体の二つの方向性の違いは、次の親子の原理(根元的全体と派生的部分の原理)から明らかとなる。

     
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親子の原理

われわれの肉体は物質であり、その根元は母なる大地といわれる地球である。われわれの食物のすべては他の生物の体であり、その根元は大地である。米も麦も野菜もすべて土が変化したものであり、植物を食料として構成される。人間はあらゆるものを食料として肉体を構成している。しかし、いかなる生物の体もその根元は大地より出発し、やがて大地に帰る。“汝塵なれば塵に帰る”とは、全生物の体についていわれている絶対的な自然の掟である。大地は、全生物の肉体の大親であり、土より派生した肉体はやがて絶対的に土に帰る。このサイクルを肉体の法則といい、根元であり全体である大地とそこから派生した部分である肉体との関係は親子の関係と見ることができる。このような関係を親子の原理という。派生的部分、すなわち子が存在することはその前提として親の存在がある証拠である。親がいて子がいる、派生である子がいることは親がその根元として存在する証拠である。このことはわかりきったことではあるが余りにも当たり前だからかえってむずかしい。われわれ個々の生物が生命を持つということは大自然には大親である大生命が存在する証拠である。大宇宙に満ち満ちている大親である大生命から派生したわれわれ個々の生命はやがて大生命に帰っていく。このサイクルが生命の法則である。親子の原理の一つの原則には子は親と同じ理を本質的に受け継ぐというものがある。したがって、この原則から考えれば母なる大地が物質であるからわれわれの肉体もまた物質であることは当然である。物質から派生したものは物質である。生命についてもこの原則はあてはまる。大親である大生命から派生したわれわれ個々の生命は親が時間、空間を超越し、形を越えた存在であるから、本質的にその理を受け継ぎ目に見えない存在なのである。生命と肉体の方向性の違いは親子の原理から明らかである。ここで最も大切な点は物質は受動的存在であり、従って物質である肉体はじっと何ら努力しなくても受動的に土に帰るが、しかし能動的である生命が永遠普遍なる大生命へ到達するのには個々の生命体が能動的に積極的な努力をしなければならぬということである。この違いは生命と肉体の能動性と受動性という本質的の違いに帰因するものである。受動的に土に帰る肉体については問題はないが、認識する本体としてのわれわれの生命は能動的、積極的に努力して欲求の段階を高めていかねばならない。そのために大自然の大親である大生命は生命の子であるわれわれ個々の生物に種々な生涯と種々な生存の味わいを与え、成長発展を促しているのであろう。
     
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