西郷隆盛について

南洲翁は、鹿児島の加治屋町に一貧乏士族の長男として、文政十年(1827年)12月7日に生まれている。父は吉兵衛、母は政子(椎原氏)である。父の吉兵衛は藩の勘定方小頭を勤めていたが、その家格は低かった。吉兵衛の弟は大山姓をとって大山綱昌と称し、大山巌元帥の實父にあたっている。
西郷氏は、その先を肥後の名族菊池氏に発し、鹿児島に移住したのは、元禄元年(1688年)のことと伝えられている。西郷九兵衛を祖に代々島津氏に仕え、南洲翁はその第十代に当る。翁が僧の月照と薩摩の瀬戸に身を沈め図らずも再生を得て、身をしばらく大島に隠したとき、菊池源吾と変名したのは、祖先が菊池氏に出ていることにもよっている。
翁は幼名を小吉と云い、後に善兵衛と称し、吉兵衛と改め、また隆永とも云い、吉之助とも云い、隆盛とも称したが、通称は吉之助で通っていた。そして、南洲はその号である。

生まれつき巨体で目玉は大きく、見るからに容貌魁偉の風貌を具えていた。幼年時代には藩の儒学者松元氏について漢学の素読を受け、やや長じては藩校の造士館に学んだが、薩摩の青年に共通する軍書読みに興味を持ち、三国志だの呉越軍談だの、或いは太閤記だの甲越軍記だの類を愛読した。また赤穂義士伝の輪読なども盛んにやった。吉之助の友達には大久保市蔵(利通)、長沼善兵衛、有村俊斎(後の海江田信義)、大山正円(綱良)、伊地知正治、吉井友実、税所篤、樺山三円、美玉三平などがあり、中でも大久保とは最も親しくしていた。

吉之助の勉学修練には、また特異なものがあった。その一つは、伊藤茂右衛門に就いて王陽明の「伝習録」を学び、また佐藤一斎の「言志録」を授かって愛誦したことである。陽明学に関しては、後年京都の春日潜菴にも師事している。言志録については、後年自から手抄を編して座右に置いていた。その二は、無参和尚に就いて禅学を修めたことである。無参禅師は高徳僧であり、勤王僧であり、藩の「秩父党」の一人でもあった。西郷の禅学は深くはなかったが、よく真味を悟得していた。それは、西郷が生まれながらにして禅味を体していたことにもよるが、西郷の一生が英雄にして神仙たるの境地は、この禅機の然らしめたものと言える。

西郷が国事に奔走するようになってから、最も尊敬した人は、先輩として水戸の藤田東湖を推し、同僚としては越前の橋本左内を推している。東湖は「弘道館述義」や「正気の歌」で知られる勤皇学者で、維新の志士の多くは東湖の感化を受けている。左内は西郷よりは年下であったが、有名な「啓発録」は十五才の時の著作であり、西郷は左内の見識に深い敬意を表していた。


吉之助が初めて藩の仕事についたのは十五才のときであって、郡方奉行迫田太次右衛門のもとに郡方書記の下役となり、二十七才まで十三年間を一小吏として過している。この間に、西郷立志の第一歩が訪れてきた。それは、島津の斉彬、久光の継嗣問題にかかわる「お由良騒動」に端を発するもので、上は藩主、家老、重臣から、下は微臣、卑士、走卒に至るまで、一大旋風を捲き起こし、中央政局にも波動を及ぼした一大事件である。

このお家騒動に高崎五郎右衛門、赤山靱負などを主とする正嫡派の正義硬骨の士は、久光擁立派のために、高崎以下の五士は切腹を命ぜられ、また島流しや謹慎の憂目を見る者も多かった。「高崎崩れ」と云われるのがこれであるが、その翌年の嘉永三年には赤山も自刃して果てた。その赤山の介錯をしたのが吉之助の父の吉兵衛であるが、吉兵衛は血痕に染まった赤山の片袖を自分の家に持ち帰り、その悲壮なる死を家人に語った。吉之助は当時二十四才の青年であったが、鮮血の袖を拝して号泣し、先人の志を継がんことを深く心に期した。西郷が天下の志をたてたのは、実に赤山の鮮血を見た時に始まるとされ、高崎正風がこのことを伝えている。

その頃、同僚の間で頭角を現していた者は西郷、大久保、有村俊斎、有馬一郎、などであって、特に西郷は斉彬公にその素質と識見を認められ、斉彬公とも度々接見する機会を得た。そしてまた、これから中央に出て勤皇志士と交わる機会も得て、国事に奔走するに至ったのである。

しかし、西郷の行く道はけわしかった。しかも藩主久光公には誤解も受けて、島流しの厄に逢った。西郷は、藩によって二回も大島に流されている。第一回の島流しは、僧の月照との関係に基ずくものであって、勤皇僧として有名な月照和尚は京都の清水寺にいたのでは幕府につけ狙われるので、近衛公が特に西郷に頼んで薩摩に身を隠すことにされたのである。そこで西郷は月照を伴って薩摩に入ったが、二人は生き延びる見込みなしとして桜島の前沖で共に入水したのである。月照は不帰の客となったが、西郷は救い上げられたのちようやく蘇生したのであった。しかし徳川幕府を憚る島津藩では、このままではおさまらぬとして、西郷も死んだものとつくろい、その実は変名させて大島に流したのである。弧舟鹿児島を発する時、大久保は「藩の命令だとて大島に渡る必要はない、直に脱藩して肥後に遁れ、同志結束して起とうではないか」と力説したが、西郷は期するところあって藩命に反かず、そのまま流されることにした。かくして、大島の竜郷に幽囚の生活を送ること三ヶ年に及んだのである。

この間、大久保や税所喜左衛門、あるいは吉田七郎などに書翰を送っているが、書翰の一節には「誰も咄相手も無く、種子島城助や重野両三が見えるぐらいで、島の子供も預けられ曰々」とあって、淋しい中に寺子屋師匠をしていた。しかし逆境の中にあって一片耿々の忠誠は変わらず、これを良き機会として聖賢の書を読み、道を明らめ行いを修するに努めた。四書五経はもとより、管中の牧民篇、貞観政要、嬰鳴館遺草など好んで読んだ。また閑あれば許を得て山に入り、猟を楽しんだ。井伊大老の暗殺が伝わったときには小踊りして、刀を手に取るが早いか、跣足のまま庭に飛び下りて松の木に斬りつけ快哉を叫んだ。西郷島流しの遠因は、井伊大老の弾圧に発するものであったからである。

やがて天下の形勢は、西郷をして島に閉じ込めておくわけにはいかなかった。殊に薩藩では久光公の時代となって、藩士の中には急進派と漸進派が生じ、久光公はまた和宮降嫁問題や公武合体のために出兵東上することとなり、それには西郷を大島から呼び戻さざるを得なかった。かくして、西郷は迎えられて晴天を見るに至ったのであるが、それもしばしの間であった。

まもなく西郷は久光公の命によって東上先発したのであるが、下関につかれた久光公から激怒を買い、これが原因でまた島流しとなったのである。その経緯はこうである。すなわち、久光公は西郷と村田新八を先発せしめて九州諸藩の情勢を探らせ、下関に止まって久光公に報告するように命ぜられていた。

ところで西郷は、中央の情勢が逼迫しており、それに尊皇倒幕あるいは攘夷の志士との連繋の関係もあったので、大阪まで行ってしまった。下関に着いた久光公は、西郷が下関にいない、それどころか西郷は勤皇志士と謀って久光公の公武合体を傷つけんとするものであると側近から聞かされたので、直に西郷を捕らえよということになった。そこで西郷は大阪で捕えられ、さては二度目の大島への島流しになったのである。

     
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文久二年四月十一日、西郷らを乗せた天祐丸は大阪河口を発して鹿児島に向かい、しばらく山川港に滞船の後、西郷は徳之島に村田は喜界が島に流された。西郷は徳之島に約二ケ月半閉じ込められ、この間琉仲為の厚意に接したが、一人の老婆には「おはんな二度も流されたのか、よほどん馬鹿じゃな」と罵られることもあった。これには西郷も「以後気をつけ申す」と云って、弁解などはしなかった。そして、読書と山遊びを日課としていた。

それから西郷は、久光公の厳命で徳之島から沖永良部島に移されたが、沖永良部の幽囚生活は文字通り難渋を極めたのであった。それでも西郷は志を挫かず、時の至るを待った。西郷が沖永良部に幽囚の間に吐露した言葉には「当今の時勢はどんな良薬を与えても、内憂外患かように深まっては不治の病と同様、これでは四、五年を出でして必ず大変革が起るに相違ない、それまではまずこの島を出ない考えである」。また「憤激のあまり自刃などするは残念な話、武士たる上はどこまでも主上の命を奉じ、若し死を賜わらば従容死に就く覚悟である」と語っていた。

「天の大任をこの人に降さんや、必ずまず其の心志を苦しむ」とあるが、西郷はこの天の試練に堪えていたのである。

沖永良部の幽囚生活は、文久二年八月十四日から元治元年二月二十三日まで約一年七ケ月に亘っているが、横目役の土持政照が叮重に世話をしている。しかし島の和泊に設けられた獄舎は二坪ばかりの粗屋で、厳重に鍵を下され、非風惨雨の中に西郷はいつも正坐黙思して、深く心胆を練った。その間、或は書を読み、或は筆を執る以外には何もしなかった。「君子は其の独りを慎む」とあるが、独りを慎むの工夫は、この辺からも養われている。

また西郷の携帯した三個の行李には書籍が満たされ、経書や史書がうず高く積まれた中から「季中定公奏議」や「陳竜川文鈔」や「言志四録」や「伝習録」の本など、経国済民、治世牧民の学に精進せられた。この間、乞わるるままに島民の小童に四書の素読などを教え、修身と尊皇の大義を説かれた。沖永良部の獄中で詠まれた「獄中有感」の詩は甚だ有名で、「願わくば魂魄を留めて皇城を護らん」というこの烈々たる忠節は、万人の胸を打つものである(この詩は、あとで「詠賦の漢詩」の中で説く)。このほか、沢山の詩を作られて、世を慨しまた自ら鞭をあてられている。

文久三年も暮れて元治元年の春となり、南洲翁にも再び天日が廻ってきた。久光公も私情をもって西郷を罰することはできなくなり、赦免の舟を沖永良部に向わしめられた。喜界島の村田にも赦免の令が出た。天下の形勢は正に急である。震天動地の大局は、いま西郷の登場を待ち受けている。

明治維新の元勲と仰がれ、あるいは大陸問題を先優した大西郷。故山にあっては自ら「武岡の吉」と称して田夫野人となり、ついには若殿原のために城山颪の朝風に岩崎谷の露と消えた大西郷。ああ蓋世の大英雄にして世界の大偉人、大政治家にして大精神家。そして「敬天愛人」と「至誠」を貫いた南洲翁。世の文明論についても、その根本を説かれた思想家の南洲翁。

その五十年の生涯はただに一世の師表たるに止らず、その遺徳と見識は今もなお桜島の噴煙と共に天に沖し、世道人心に万代の鑑となって輝いている。

     
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西郷南洲翁遺訓

西郷の遺訓と精神は、いつどこで、どうして出されたか  

南洲翁の教訓が「南洲翁遺訓」として、始めて世に出されたのは明治二十三年一月であって、実は山形県鶴岡の庄内藩の人々によって出版されたのである。翁の遺訓が地元の鹿児島から出ずして、庄内藩から著わされたことについては深い事情がある。今この事情を尋ねるに、庄内藩は明治維新の当時まで会津藩と共に熱烈な佐幕派で、徳川の為に最後まで忠義立てした藩であった。越後から東北地方、北海道を平定せんとする明治元年の戊辰の役に、官軍の総参謀として庄内に向かった西郷は、藩に対して寛大なる措置をとり、その誠意溢るる西郷の人物は庄内藩士に深い感動を与えずにはおれなかった。

そこで、明治三年には庄内の藩公酒井忠篤以下七十人は、はるばる鹿児島に西郷を訪ねて百余日の間、南洲翁に就いて教訓と兵学を修めた。超えて明治八年には、また藩の重臣菅実秀が八人の青年を引きつれて南洲翁のもとに至り、二十一日の間翁の教えを親しく受けた。南洲翁が私学校を開かれるや、明治八年九月に庄内藩の戸田、池田、黒谷の三人は翁の膝下に参じた。間もなく同年十二月には、私学校入学を熱願する伴兼之(十八才)と榊原政治(十六才)の二人をつれて伊藤孝継が鹿児島に入り、翁にこの二人の入学を懇請した.翁は、他県の人は応じ難いが貴県は特別であるとして入学を許可せられ、篠原国幹の家に宿泊させて通学せしめられた。

かくして、庄内藩と南洲翁との間には実に因縁浅からざるものがあるのであって、翁の教えを受けた庄内の藩士や青年たちは翁に就いて手記した教訓を集めて、これを「南洲翁遺訓」として出版することとし、その初版が明治二十三年一月に上梓されたのである。これが南洲翁遺訓として初めて世に出されたものであって,後世に永く伝えられることになったのである。

     
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道は天地自然の物にして人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我れを愛する心を以て人を愛するなり。

人間の道は、天地自然のものである。人間は天地自然の賜物であり、また天地自然を本として生存しているのであるから、天地自然を敬うことが人間本来の目的である。しかも天地自然は他人も自分も同様に愛されているから、自分を愛する心をもって他人を愛しなければならない。これが天地自然の道であり、同時に人間の道である。

南洲翁の有名な「敬天愛人」の思想は、この一節から出ている。実に、すばらしい千古の大教典というべきである。人間の道を天地自然におかれたことは、天地自然は真理であり神であり、愛であり仁であるからである。この思想の中には、人間の小ざかしい自我的な考え方や個人主義的な哲学は微塵もない。正義も人道も平和もその原は敬天愛人に発し、人権尊重も平等博愛も尊皇安民もみな敬天愛人の表れである。大教育者のぺスターロッチは「愛はすべてのものに打ち勝つ」と言い、修養団では「愛なき人生は暗黒なり」と教えているが、南洲翁は「愛」ばかりではない、「敬」を根本として説かれておられる。そこに「敬天愛人」の崇高なる真義がある。

南洲翁は、いたるところで敬天愛人の思想を説かれている。あとで示す漢詩の中でも「天心を認得して志気振う、千秋動かず一声の仁」と、すなわち天心を認得することは天を敬うことであり、一声の仁とは人を愛することである。また、学問の本旨を説かれるに当っても「王を尊び民を憐れむ」と、すなわち天孫を尊び、人民を愛するにありとされているのである。元来、人間は神の子である。人間には神性が宿っているのであって、良心とか誠とか愛とかは神性そのものである。また、人間の生命も大自然の生命そのものの中にあるのであって、自分の身体も実は自分のものではないのである。それを、人間は気づかないでいる。

南洲翁が、人間の道を天地自然において敬天愛人を説かれたことは、こういう深い根本にふれているのである。宋(中国)の張横渠という人の有名な言に「為天地立心万世開太平」(天地の為に心を立て万世に太平を開く)というのがある。天地の大道に立てば、いつまでも平和と繁栄が続くのであって、南洲翁は更にこれを深めて的確なる「敬天愛人」の思想に発展せしめられたのである。敬天愛人の思想はただ人道の大本であるばかりでなく、世界の平和を維持する上にも基本となるものである。

     
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人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし

人を相手にしないで、天を相手にしなければならない。人を相手にしないということは、人間は他人のことばかりを気にして、他人の見ている前では悪いことをしないが、他人が見ていないとか他人が知らないとかなるとどんな事でもしたがるものである。そこで、いつでも天を相手にしておれば悪い事などはできない、また間違いもない。どんなに隠しても天知る地知るで、ついには人も知るにいたる。いわゆる、俯仰天地に恥じないことが、一番大切である。それにはいつも天を相手にして自分の誠をつくさなければならない。人を咎めたり、あるいは自分が善いことをしながら他人を恨むことなく、ただ自分が誠をつくしているかどうかを責めるべきである。

人を愛することと人を相手にしないこととは一寸矛盾しているように見えるが、ここで説かれた南洲翁の「人を相手にせず」とは、己の独りを慎んで誠を表すことを強く要求されたものであって、それはまた同時に人を愛する事にもなるのである。前にも述べたように、人間には神が宿っている、誠はその神である。「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」の古歌にもある通り、誠そのものが神であるのである。

思うに、南洲翁の一生は「誠」の一字に尽き、いつも身に宿る神の誠を引き出されたのである。僧の月照と共に海に投ずるも,孤島の島流しにあっても、勝海舟と江戸城の明け渡しを談ずるにも廟堂(政府)にあって大陸経営を論ずるも、また子弟のために黙して城山の露と消えるも、要するに一個の至誠にほかならない。

「天を相手として、人を咎めず我が誠の足らざるを尋ぬべし」とされた南洲翁の遺訓は、実に千古の大教訓であって、ここにもまた「敬天愛人」の真心が表されている。

     
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己を愛するは善からぬことの第一なり。修業の出きぬも、事のならぬも、過ちを改むることの出来ぬも、功に伐り驕慢(おごりたかぶる)の生ずるも、みな自分を愛するが為なれば、決して己を愛せぬものなり。

己を愛する、すなわち自分さえ良ければ他人のことなどはどうでもよいとするのは、人間として善からぬことの第一である。修業のできぬのも、事業の成功しないのも、過ちを改むることできないのも、またおれがおれがで鼻を高くするのも、みな自分を愛するがためである。それは、本当に自分を愛するというものではなく、利己主義や個人主義の代弁である。こういうおのれの愛し方は深く慎まなければならない。

いつの時代でも、物欲や名誉欲のための我利我利盲者は絶えないが、また今日の世相と人心ほど、南洲翁のこの遺訓を必要とする時代はない。明るい社会が出来ないのも、社会に争い事が絶えないのも、人物が出来ないのも、事業に失敗するのも、その多くは根底において自分だけを愛するからである。

人権尊重も男女同権も結構であり、民主主義も組合主義も結構であるが、一番大切なことは本当の自分を見失わないと同時に、正しい行動をして、更には人のため世のために誠をもって尽くすことである。「己に取りこむものは八分に止め、二部は天に預くべし」と古い諺にあるが、今は己れに取りこむ一方で、生活も人生観も利己の一点張りである。これがために、社会もなければ国家もない人々がある。凡そ人間のなすべき、またつくすべきことは「何が得するか何が楽しいかよりも、何が正しいか何が尊いか」である。

神仏を信じて心の静安や悟りを開き、人道や正義を重んじて太平を開くと共に、社会への奉仕もあって然るべく、国家への奉公もあって然るべしである。アメリカの若き大統領ケネディは、その就任に当り「国家が国民に何を与えるかよりも、国民が国家に何をつくすべきかが大切である」と述べた。

実際に、献なき社会は発展せず、献なき国家は亡ぶに至る。南洲翁は己の利得や名誉を捨てて、天道に基づいて天下を経営なされたのである。明治維新が世界に誇る成就を見たのも、南洲翁らの己を愛しない献身的な働きから生まれたものである。

     
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命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は,仕末に困るものなり。然しこの仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様の人は凡俗の眼には見得られぬ者ぞと申さるるに付き、孟子に「天下の広居におり、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と謂いしは、いま仰せられし如き人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬなり。

名もいらぬ、金もいらぬ、命までもいらぬ、こういう人はよほどの大馬鹿ものである。しかし、こんな仕末に困るような大馬鹿ものがいなければ、世の中は治まらぬのである。歴史もつくり出されないのである。事業を行うにしても、損得だけを考えては決して成功するものではない。まして、国民のために国家のためにつくすべき政治家や指導者が、名誉の為に、財利の為に、また保身の為に終始するならば、それは私の為の政治である。これは政治家だけに限ったことではない、教育者としても然り、また一般の人間としても然りであって、要は正しいこと、聖なるものには、精魂を打ち込んで命がけでかからねばならないことを説かれた遺訓である。

ここで引用せられた「孟子」(四書の中の一つ)に「天下の広居のおり、曰々」は、大丈夫(立派な優れた人物)の気象を表したもので、昔からよく引用せられる語である。南洲翁は、道の為なら、国の為なら、名も金も命もいらぬとされたのであって、それは政府にあっても野にあっても同じで、正に大丈夫の気象をそのままに生き抜かれたのである。この「名も金も命もいらぬ」の遺訓は、また非常に有名なもので、西郷の西郷たる本領を遺憾なく発揮されたものである。そして、前に掲げた「天を相手とし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」とされた遺訓を、ここで更に強めて、道の為なら国の為なら名も金も命もいらぬと、至誠と真心を披瀝されているのである。南洲翁が世界の大偉人と仰がれるのは、このような信念に徹しておられたからである。

実際、物質文明が氾濫し道義が頽廃し、気象が失われ国家が危なくなるときに、いつも西郷が飛び出して来て精神界に活を入れる。また、国本を忘れあるいは歴史と伝統を顧みない政治や教育が横行するときに、いつも西郷が飛び出して来て世の松明として光る。南洲翁の遺訓はみな万古を貫く師表である。その本源は「敬天愛人」の思想と、この「没我奉仕」の精神から発している。

     
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道を行う者は、もとより困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否や身の死生などに少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、者には出来る人出来ざる人ありて、おのずと心を動かす人あれども、人には道を行うもの故、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管道を行い、道を楽しみ、若し艱難に逢ってこれを凌がんとならば、いよいよ道を行い道を楽しむべし。予(自分)は壮年より艱難という艱難にかかりし故、今は如何なることに出会うとも動揺はいたすまじ。それだけは仕合せなり。

道徳を守る人には、苦しいことがある。しかし苦しいからといって、道を避けてはならない。道というものは、事の成否や身の死生に超越するものであり、また道を行うのに上手下手もない。艱難や逆境に打ち克つには、それこそ修養が必要である。自分は二度も島流しに逢って艱難を極めたが、却って修養に努め、いやしくも道を踏み外すようなことはしなかった。だから、どんなつらいことが起こっても挫けるようなことはない。それだけは自分にとって仕合せなことであった。南洲翁の詩に「幾たびか辛酸(難儀)を歴て志始めて堅し」と詠まれたのも、このことである。

旧い中国の本に「菜根譚」というのがある。その一番始めに、こう書いてある。すなわち、道徳を棲家とする者は、とかく不遇に陥って一時は寂しいが、金や名誉に浸っている者は、栄華に見えていて、実はあとで寂しいものである。歓楽極まって悲哀多しとも言われるが、道ならぬ歓楽は悲哀のもとである。また、逆境にあって修養の大切なることを説いたものとして、中国の荀子という学者は君子(立派な人)の学として、それ、学は通の為にあらざるなり。窮して困まず、憂いて意衰えざるが為なり、禍福終始を知って惑わざるが為なり。と説いている。つまり、学問は物知りになることではない。また大学受験や就職のための通のものではない、逆境や艱難に出合ったときに、これを乗り越えていくために修養するのが、学問であるとしている。また、「中庸」という本(四書の中の一つ)に 君子はその位(境遇)に素して行い、その外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賤に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。君子は入るとして(如何なる境遇にあっても)素行自得せざるなし。とあって、貧乏や逆境にもその然るが如く自得していくというのである。南洲翁は朝にあっても野にあっても、素行自得されて何もあくせくされなかった。

     
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道を行ふ者は天下挙って毀けるも足らざるとせず、天下挙って誉めるも足れりとせざるは、自から信ずるの厚きが故なり。その工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。

道徳に生きる者は、人が笑おうが褒めようが、そんなことは一向に気にしない。道徳は人間が踏み行わなければならないものであるから、このほかに生きようがないのである。渇しても盗泉の水を飲まずである。道に殉ずる者は、本当に尊い。伯夷・叔斉の兄弟は、道を信じて義に従い、独立独行して餓死するも顧みなかった忠節の士であった。「忠臣は二君に仕えず」「節婦は二夫に見えず」。愛と正義が最後の勝利となるように、道を信ずる者は強くして美わしい。韓文公の讃えた「伯夷の頌」は、その大要を申せば、人々の批判を気にせず自分の正しいと信ずるところに従う者はみな豪傑の士である。豪傑の士は、道を信じ義を重んずるから決して動揺しない。「千万人と雖も我往かん」の気概も、わが心に信ずるものがあってこそである。南洲翁も道のためなら、また国のためなら死を顧みなかった独立独行の士であった。
     
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幾たびか辛酸を歴(へ)て志始めて堅し
丈夫玉砕して甎全(せんぜん)を愧ず
一家の遺事人知るや否や
児孫の為に美田を買わず


この一詩は、人口に最も膾炙(よくしられる)せる有名なもので、この一つの詩だけで南洲翁の人と為りに接する思いがする。翁は生まれながらにして偉かったのではない。小さい頃から多くの生きた教訓に接し、深い学問を修め、しかも幾多の艱難辛苦を重ね、その上で志もいよいよ鉄石のように固まったのである。そして、金や名誉はもとより命まで投げ出して、常に天道に従って国家と民生の為に尽くされたのである。傷つかない瓦のように余生を完うしようなどとは少しも思わず、時至ればいつでも玉のようになって砕けることを念じておられた。従って日常の我が身が一身上のことはもとより、子孫に対しても美田(多くの財産)を残しておこうなどとは、夢にも考えておられなかった。こういう心境が、この詩の中にありありと詠まれている。
種子島の日高斌景という人の詩に、赤貧に甘んじながら綽々たる生活を送るの詩がある。

    嵯跎(つまずき)幾度なるも清貧を守る
    説かず世間栄達の人を
    没脚埋頭す俗塵の裏
    吟懐(詩を詠む)余し得たり四時の春


いつも失敗して貧乏しているが、今は貧乏も苦にならぬ。ましてや、世間で栄達した人の事など気にかけぬ。自分は裏長屋に住んでいるが、詩を詠んでおればそれが何よりの楽しみで、心の中は春夏秋冬いつも春のようだ。南洲翁も沢山の詩を残されているが、作詞を生活とせられたのでは勿論ない。ここでは、ただ艱難や赤貧に処しても動じない一つの詩を掲げたのに過ぎないのであるが、南洲翁の場合は栄達しながら栄達を栄達とせず、清貧をまもられたのである。この事はなかなか常人ではできないことで、大西郷の偉かったのは、偉勲や功績だけではなく、こうした私生活の面にも実に偉かったのである。

     
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      除   夜

白髪衰顔意とする所に非ず   はくはつすいがんいとするところあら
壮心剣を横たえて勲無きを愧ず そうしんけんよこたえてくんなきを
百千の窮鬼吾れ何ぞ畏れん  ひゃくせんきゅうきわなんおそれん
脱出す人間虎豹の群       だっしゅつじんかんこひょう



髪が白くなったり、顔に皺の寄ることなどは何も気にするところではない。血気旺んなる心を持ち、剣を横たえながら何の手柄もなく、国のために報ゆることが思いに任せられんことが甚だ残念で、愧ずかしい極みである。明治九年暮れの大晦日に金銭の奴隷たる借金取りの鬼共が今うようよとつきまわっている。自分は、虎や豹のように剽悍な軍人の群れから出た男であるから、借金取りの鬼共は少しも恐れるに足らぬ。これが、この詩の字解である。ところで、南洲翁の父には借金があってそれはとおに倍額にして返金されたことはあるが、南洲翁自身には一銭の借金もなかった。そこで借金取りの鬼共といわれたのは、南洲翁暗殺団のことを風刺されたものと解すべきである。この暗殺団というのは、実は警視庁巡査隊による偵察団であったのであるが、それが明治九年の暮れに鹿児島に入っているので、この詩には「除夜」と題して借金取りの窮鬼とされたものであろう。当時翁は一人の従者をつれて大隅の小根占の狩場におられたが、私学校では政府側の圧迫と翁の身辺を心配して、翁の弟の小兵衛と私学校員が急使として馳せつけ、告ぐるに鹿児島の形勢逼迫をつぶさに説き、奮起の已むなきを訴えた。翁は容を改めかつ大息して申さるるには「わが事ついに終わるわれ死せり」と。かくして鹿児島に帰り、若殿原(私学校党の若者)の為に起たれたのであって、これが明治十年の西南の役となるのである。
この詩はかかる事情のもとに詠まれたものであって、翁はまだ陸軍大将であったから百千の窮鬼、すなわち暗殺団などは少しも恐るるに足らぬ。とされたのである。

     
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遺韓使論と私学校

遺韓使論

世のいわゆる西郷の征韓論なるものは、実は「遺韓使可否論」というのが本当である。
朝鮮を征伐する侵略論ではなく、欧米の東洋に対する植民地化帝国主義を喰い止めんとするものであった。これがために西郷が朝鮮に使して国王の大院君に交渉し、更に清国(支那)にも説いて、共に手を握ってアジアを守らんとしたのである。西郷が朝鮮に行くために、兵士も軍艦もつけず、ただ一人でしかも丸腰のままで使節たらんとした、この一事をもってしても征伐や威圧のためでなかったことが明らかである。
あとで発見された当時の内閣記録にも「遺韓使可否論」となっており、征韓論とは書いてない。これを世に誤り伝えて征韓論としたもので、これは今日訂正して歴史を改むべきである。この遺韓使可否論は非常な激論となり、時の政府の参議(大臣)はその多くが西郷説を支持したのであったが、たまたま欧米視察から帰朝した岩倉具視、大久保利通らの開国と内示論のために、ついに破れ去ったのである。破れ去ったとは雖も、西郷の卓越せる理論と大見識は、三条太政大臣に向かって獅子吼せられた演説の中によく出ている。この演説の記録が内閣記録として残っているのであって、この記録の発見は「大西郷全伝」の著者として有名な雑賀博愛(福岡出身の国士的学者)が、その五巻を出版した後に、内閣の書庫から見付け出されたものである。

ここで一寸付記しておくが、大西郷全伝は五巻まで出ていて、予定の第六巻(西南の役の巻)は出ていない。雑賀氏は鹿児島で第六巻の原稿を書くこととし、特に谷山の去来山荘(この遺訓書の著者の旧宅)に止宿して執筆することに約束され、一度東京に帰られたのであるが、戦争末期で紙もなくそのうちに病死されたのであった。

雑賀氏の発見せられた内閣記録には「西郷南洲翁口述筆記」と題して、「明治六年世にいわゆる征韓論議の廟堂に於て三条太政大臣に向かって為せる西郷隆盛の口述筆記」と説明を加えて、左の通り発表されている。

『太政大臣(三条公を指す)な、篤と聞いて置いて下され。今の太政大臣な昔の太政大臣でなく、王政復古、明治維新の太政大臣でごわす。日本を昔からの小日本で置くも、大神宮の御神勅の通り、大小広狭の各国を引き寄せて、天孫のうしはき給ふ所とするも、皆おはんの双肩にかかって居り申すでごわす。日本も此の儘では、何時までも島国の日本の形体を脱することは出来申さぬ。今や好機会、好都合でごわすので、欧羅巴(ヨーロッパ)の六倍もある亜細亜大陸に足を踏み入れて置かんと、後日大なる憂患に遇いますぞ。朝鮮と清国とは、こけ威しで、決して恐るるに当り申さぬ。魯西亜(ロシア)は国民の耳目を外国にそらさんことを始終致し申さんでは、自己の身体が危ないでごわす。大兵を出して日本を征するなんちうことはとても出来申さぬ。今おいどんが言ふ事をお聴きにならんと、後日此倍もまた其倍も、骨が折れ申す。そしてどう骨折っても、おいどんが今言ふことをせんばならんとごわす。どうでもこうでも、日本の神慮,天職でごわすけん、結局、朝鮮を外垣として、後に朝鮮を策源地と申して、魯西亜(ロシア)と手を引き会ふことになり申す。然し、一度は戦争しまつせんと、相手の事情も本当に呑み込みませんから例令仲好くなり申しても、皮相の同盟で、誠意の同盟は出来まつせんから、一寸の利害で直ぐ崩れますぞ。此通りなり行くことは、この隆盛が判断したことではなか。実は天祖の御神旨、日本の国命が此通りでごわすから、いやでも遅かれ左様になり行きます。おはんな、おいどんより年下じゃけん、おいどんより後に生き残りませうで、只今申した事は、よう覚えちょつて下され。』

これを見ると、西郷の意図がどこにあったかがよくわかる。西郷が、この大陸政策を御神旨による国命としたのは、維新の諭告分(大号令)の中に「国威挽回の御基本を立てさせられ日々」とあり、また五箇条の御誓文と共に発せられた億兆安撫国威宣布の御宸翰の中に「朕ここに百官諸侯と広く相誓い、列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問わず、親ずから四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂に万里の波濤を開拓し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんことを欲す。曰々」とあるところから、更には遠く建国の大本に原ずき「六合(くに)を兼ねて都を開き、八紘(天が下)を掩ひて宇(家)となさむ。曰々」の御神勅にも、答え奉らんとされたものと察せられる。

     
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もし、西郷の先見先憂にもとずいて、アジア大陸の保全を図っていたならば、日清戦争も日露戦争も、また大東亜戦争も起らずに済んだことであろう。またもし、西郷南洲や大山元帥を大東亜戦争に有らしめたならば、戦争終結の汐時をよく摑んで、日本大勝利のうちに講和を結ばしめ得たであろう。遺韓使論の論争は、近代日本の政治史上において最も激しいものの一つであって、御前会議も開かれている。遺韓使論が当時の国民の間にも血を沸かしたことは当然であるが、これがまた私学校党による丁丑(ていちゅう)の役(明治十年の西南の役)の遠因ともなっているのである。           
                                        『大西郷の遺訓と精神』南洲翁遺訓刊行会より
     
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勝海舟が南洲翁の心情を察して詠じた和歌二首

討つ人も討たるる人も味気なや同じ御国の人と思えば

濡れ衣をほさんともせず子供らのなすがまにまに果てし君かな           
                                        
                                         『大西郷の遺訓と精神』南洲翁遺訓刊行会より
     
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